マニラの歴史を学ぼう

どうもウシワカです♪

マニラはご存知の通り、フィリピンの首都です。でも、その歴史についてはご存知ない方も多いかと思います。今回はマニラの歴史について、私の言葉でわかりやすく説明していきます!

スペイン統治時代まで

もともとマニラはパシッグ川がマニラ湾に注ぎ込む交通の要衝で、マレー人や中国人を中心に交易都市として賑わっていました。

16世紀になるとスペイン人がやってきます。スペイン人たちはマニラの地理的重要性に着目し、東洋支配の拠点とすべくマニラを要塞化していきます。これがイントラムロスです。この後、約300年に渡り、マニラはスペインの東洋支配の拠点として発展していきます。

一方、追い出された形となった中国人たちは、マニラの外に中国人街を築いていきます。これがチャイナタウンの始まりです。

アメリカ統治時代

19世紀になると、かつて無敵艦隊を誇ったスペインも、その力は弱まってきていました。1898年には、アメリカとの間で米西戦争が勃発。戦争に負けたスペインはフィリピンをアメリカに売却します。これにより、マニラもアメリカの統治下に置かれることとなりました。

アメリカはインフラ整備を中心にイントラムロスの近代化を進めていきます。あのマッカーサーも1935年以降、フィリピン軍顧問として在駐してました。

日本統治時代

1941年12月8日、日本軍が真珠湾攻撃を実施し、アメリカとの間で戦争が勃発すると、アメリカの植民地であるフィリピンも戦争に巻き込まれていきます。

真珠湾攻撃と同日、日本軍はアメリカ軍基地のあるフィリピンに侵攻を開始。優勢な日本軍に対し、アメリカ軍はマニラから撤退を決め、マッカーサーはオーストラリアに逃亡します。マニラは非武装都市と宣言され、破壊もなく日本軍の占領下に置かれることとなりました。

しかし、日本軍の戦況も徐々に悪化していきます。

1945年2月、フィリピン奪還を目指してマニラに向かうアメリカ軍とマニラ防衛のためにイントラムロスに立て篭もる日本軍との間で激しい戦闘となります。この時のアメリカ軍の猛砲撃により、スペイン時代の面影を残し東洋の真珠と言われたマニラが徹底的に破壊されることとなります。

現在、世界遺産となっているサンアウグスチン教会はこの猛砲撃に耐え、スペイン時代当時の建物として唯一現存しています。

日本軍の敗戦により、マニラは再びアメリカの統治下に置かれることとなります。

第二次世界大戦後

第二次世界大戦後、フィリピンはアメリカから独立を果たします。一方で、マニラは戦後も破壊されたまま放置されていました。

戦前は政治経済の中心として機能していたマニラも、戦争による破壊によってその中心としての地位をマカティを中心とした南に奪われていきます。

ちなみに戦前までは、マカティのアヤラ通りは米軍の飛行場がありました。戦後、その飛行場の滑走路を道路として活用して、アヤラ財閥が中心にマカティの開発を進めていきます。

そして、1970年代になるとイントラムロスを中心としたマニラの復興が進み、今日に至ります。復興は進んだものの今のマニラはかつてのような政治経済の中心ではなく、多数のスラムも含み、東洋の真珠と呼ばれた当時の面影はありません。

現在のマニラ

マニラはスラムもたくさんあって少々危ない地域です。それでも、歴史的建造物が多く観光業が盛んですし、エルミタやマラテには歓楽街があり、多くの人々で賑わっています。

最近は再開発でお洒落なお店も増えてきていますし、マニラ湾を埋め立てて近未来的な人工都市を築くというスマートシティプロジェクトも進んでおり、新たな東洋の真珠となるべく再開発が少しずつ進んでいます。


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